点と点を繋げにいってみようと思う

「stay hugry, stay foolish.」

スタンフォード大学の卒業式でスピーチをするスティーブ・ジョブスの動画をご存知だろうか。

めちゃくちゃ有名だから知ってる人は知ってると思うけど、まだ見たことがない方は、是非一度目を通してみて欲しい。

道に迷った時や今自分がやっていることに1mmでも違和感やモヤモヤがある人には、心に響くものがあると思う。

今でも、定期的に見返している。
(iPhoneを発表する伝説のプレゼンも好き)

このスピーチの中でスティーブ・ジョブズは、自身の生い立ちからAppleを創業する話、自分が作った会社をクビになる話、その後の経験を淡々と語っている。

今や世界中の人々に認識されているApple(彼)が生み出したプロダクツやサービスが、どのような経緯で生み出されたのか、どんなストーリーがあったのか、彼の人生を通して、ユーモアを織り交ぜながら、未来ある若者たちに向けて語りかけている。

バガボンドに出てくる宝蔵院胤栄が、がむしゃらに”強さ”を追い求める宮本武蔵に向かって 「海を泳いでいる最中には、海の広さは分からんよ」 と言うシーンがある。

「木を見て森を見ず」という言葉のニュアンスに近いものだと思うけど、この言葉にはもっと俯瞰的で視座が高く、かつ壮大で、ある種の哲学と愛のような深みがある。当時中学生だった私には、実体験を通して腑に落ちるほどの経験もなく、その言葉だけが印象に残っていて、何となくその言葉の趣旨をぼんやりと理解しているに過ぎなかった。(卒業文集の個人コメントに、この言葉を書いて自己満足に浸っていた思い出プライスレス。)

つまり、1人の人間が歩む人生において、”ゴール”などはなく、”今”が常に最高到達地点であり、正しさや正解や答えなど分かるはずもないのだ。

というか、そんなものはそもそもないのかもしれない。誰かにとっての正解は、誰かにとっての不正解でもあるのだ。

“今”を懸命に生きるからこそ、振り返った時に初めて、そのプロセスに評価や価値が生まれる。今を懸命に生きるということは、海を泳いでいる最中なのだ。人生は死ぬまでの暇つぶしとはよく言ったものだなぁ。

自分が何歳まで生きるかなんて分からないし、「良い人生だった」と思うのか、未練を残してしまうことになるのか、それは誰にも分からない。生きてみないと。

自分の人生は1回しかない。何個もセーブデータは作れないし、リセットボタンを押してやり直すことも出来ない。”もしもあの時こうしていれば”などといった妄想の中にしかない世界線の話は存在しえない。

歳を重ねてくると、良いのか悪いのか、色んなことを達観し始める。
それは経験値が積み重なるが故の安定性とでもいうのか、些細なことではグラグラしなくなってくる。

それはそれで良い側面もあるけれど、恐いのは「何もしなくなる」ということで、安定したものをわざわざ不安定に壊しにいく人は少ないのかもしれない。

正確に言えば、”諦めにも似た現状の肯定”とも言える。
「そんなもんさ」「仕方ない」で済ませていることはごまんとある。

そういったことが、ここ最近ものすごく怖いと思うようになった。

“始めること”よりも”続けること”の方が難しい。続けるためにはある種の安定性は必要不可欠だ。

けれど、だからと言って何もしなくてもその安定が続くかと言われれば、それは違うような気もするし、変化し続けることが安定を生み出すのかと言われたら、またそれも難しい。

ただ、自分たちの意図せぬ方向に時代や環境はどんどん変わっていく。

心地の良い温もりの中で傍観者になってしまえば、自己の成長はなく、失速していくだけになってしまうかもしれない。

世の中には、自分でどうにか出来る類のものと、自分ではどうしようもできない類のものがある。

時間と熱量を費やすなら、今の自分がとる決断は圧倒的に前者のように思う。

それは決して他者に想いを馳せていない訳ではないし、超利己的に走っている訳でもない。

人は1人では生きていけないけれど、1人で頑張らないといけないトキは、絶対にある。

そんなことに想いを馳せているワタクシでありました。

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